一輪の水仙

未分類 2018-01-30

何故再び写真を撮っているのか?何故ブログを再び書き始めているのか?
自分でも分からない。また再び書かなくなるかもしれない。
読んでいる人がいるのかもよくわからないが。

この地で農業を始めてとうとう私も10年目を迎えてしまった。
当時24歳。今の自宅はそれから3年目に引っ越したのだが、引っ越してから畑と自宅の往復を何度繰り返したのだろう。
時間を積み重ねるごとに畑から自宅へ向かう道の光景が変わる。そう感じるのは毎日の事ではないが、毎日の同じ光景が時に変わっていることに気付くときがある。それは、工事で道が変わったとか、季節の移り変わりにで変わったとかではない。むしろそういう変化は毎日の中で気付くし、そのことによって光景が変わったとは思わない。
変わっていないから変わったと感じるのかもしれない。
また、訳の分からないことを書いていると思われるかもしれないが、結論を急ぎたくない。

時というのは不思議なものでその流れはすべて繋がっていながら認知出来るのは一点ということだ。それは、日常という細い糸のように人はそれを紡いでいるのか、手繰っているのか、とにかく繋がった糸の上を歩いている。時に絡まり、時に手繰り寄せたいものだが、時は決して乱れることなく流れている。

歩めば時間の経過と共に肉体は衰える。だが精神はその糸の長さだけ積みあがっていくものだ。それはもしかしたら記憶という積み重ねによって導き出されているのかもしれないが、そんな物質的な概念からは行く先には何もないことを知っている。

そう、毎日見ている光景に物質的な変化が起ころうとも、糸の上での出来事でしかなく、人が手繰ったり、絡まったりしていることと何ら変わりがないこと。ごく普通の出来事でしかない。物質的に変化しないことなんて時間の上ではありえないし、変化していることが変化が無いと言える。

初めてこの道を通った時の記憶は残っている。同時にその時の感覚や感情。知らない道の先へ向かう自分。住み始めてしばらくは、道端にある小さなことがやたら気になる。中古物件、前の人の意識もまだ残っている。近所付き合い、村付き合いもこれからだ。
そんな時の自分が見ていたこの道を今も同じように見ているわけもなく。物理的に絶対変わっていないところこそ、その変化が大きい。

時とは面白い。その時の自分と今の自分は繋がっているというのに、その時には今の自分を想像もできないし、この道が変化するなんて想いもよらなかったこと。でも、自分は常に変わろうとしているし、実際に変わった。私自身変わったから光景も変わったということだろう。人が地に根付くとはこういうことなのだろうか?

そして、これからも見る世界は変わっていくのだろう。

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