未分類 2015-09-24

SDIM4745

我が家の猫

壁と向い合う

何か考えているんだろうか?

何も考えていないのだろうか?

久しぶりに名古屋へ、嫁さんの実家に帰る。
農業を始めるきっかけでもあって、嫁さんの前職場のゾンネガルテン。ゆっくりお話しをする。

始めてこの店を訪れたときと同じように。
ここは都会の真ん中にあって、会話する時間がある場所。
そんな、出発点であるその場所で話していたときは、ちょうど安保法案が成立したその日だった。

日々土と向かい身形なんて気にせず、日々暮らすことを仕事とした私たちの生き方。
一着、くたびれてない服を用意してあって、嫁さんは出かける時にその服を出してくれる。

都会に出ると皆きれいな服を来ている。何だか落ち着かない。
皆、女優や俳優のように見える。昔私もそうして都会を歩いていたのに。

無いということを知らない私たち世代。
全てがあると言うことを前提に物事が進み、その上で全てが考えられる。
無いことがないこの社会で、無いことを実体験するのは難しいし、想像するのも簡単ではない。でも何だか「おかしいな」って思う。

消費社会の延長線上には必ず持続しない、崩壊する社会がある。
と言っても昔のように自ら暮らしを作る知恵も体力も、もう私たちは失ってしまった。だから、きれいな服が日常となり、流行りが過ぎれば捨て去られ、また新しい服を買うという大量消費という価値観を捨てられず、日々何かを買うために働いてしまう。
子育てであったり、家事であったり、掃除であったり、家の修復や、食べ物を作ったり採ったりという仕事の延長線上にある自ら暮らしを作り、生きていくという日常の豊かさはこの時代にはない。

安保法案も私たちの日常の結果と言える。
この社会がどこへ向かっているのか?例えば安保法案が廃案になったとしても、例えば原発が全て廃炉になったとしても何が変わるのだろう?

私たちが自ら生み出して生きると言うことを捨て、世界中からあらゆる物をかき集めて生きるという選択をした時、続かないという事実があってもそこから向け出すことは困難になってしまった。
今の価値観の中での成長も限りが見え始め、自国では賄えない発展によって貪り続ける資源や人、世界ではストレスが溜まり続け噴き出してきた今、武力という手段を私たちは選択する。

質素に慎ましく生きるのが最善の選択肢だと私は思うのだが。
名古屋から御所に帰ってきて、子供たちが畑で遊び、私は野良仕事をし、自宅に帰れば嫁さんは家事をし、子どもたちの声を聞きながら私は事務仕事をする。そんな日常がどんな高価なモノよりも、どんな旅行よりも、かけがえの無い、豊かで大切な時間。

私の前にはに厚い壁が立ちはだかっているように感じる。

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