荷台

まつなが畑 2015-11-13

SDIM5062

まずはブロッコリーを収穫し、カリフラワー、白菜、大根を採る。
カーボロネロに小松菜、ホウレンソウ、小カブ。

違う畑へ行って人参。

一息ついて、貯蔵庫からカボチャ、ジャガイモ、サツマイモ、ニンニクを出して来て。

収穫は私、調整、箱詰めは嫁さんとお客さんでもある畑スタッフがしてくれる。

食べものを担う仕事。
一年を通して一定量と必要な品目を作り続ける。途切れることなく。
食べるという行為は生命が存在した時から生命が途絶える時まで続く。その中で、人間は農耕という手段をもって蓄え、町を作り、共に生きるという文明を私たちは育んできた。

生きると言うことに責任をもって自分たちで作る。農家はその自分たちの一人として畑を管理している。
食べると言う途切れることがない行為があるからこそ、田畑は存在する。

自分たちとは。
まつなが畑は個ではなく自分たちという存在でありたい。もし、田畑が身近な存在で無くなった時代があるなら、もし、食べているものの多くが想像の範囲を越える時代があるなら、食べ物は食べ物として存在することが出来ず、金儲けの道具として個人が損得の範囲で利用し合う物でしかなくなってしまう。

この小さな農園で、小さな軽トラックの荷台に野菜が載る光景は、リヤカーに野菜を載せていたように昔として表現される時代がくるだろう。
リヤカーはガソリンもいらないし、体力もつく。軽トラックが農家の必需品となった時、私たちは体が弱くなりリヤカーを引けなくなった。余った時間は軽トラックとガソリンを買う為、必要以上に作物を作らなくてはいけなくなった。その結果、多くの人が農家をする必要も無くなった。もしくは、出来なくなった。

軽トラックはお役御免となり、もっと大きなトラックで野菜を運ぶようになり。飛行機で農薬を撒き、船で世界に運ぶ。

自分たちとは。
どの範囲をさすのだろう。

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