悲鳴と産声

未分類 2018-02-02

販売所を休止して2年。いい加減カウンターをどうにかしなければいけないと思い潰した。

カウンターの天板に使われている古材。昔、実家の向かい側にあったロープを撚る古い小さな工場を潰す時に解体屋に交じって床材を貰ってきたもの。
使い古された板にブライワックスを刷り込むと実に良い味が出てくる。

子ども時代当たり前のように見てきた風景がある。その工場から聞こえてくる機械音。今もなんとなく記憶に残っている。時代とは始まりあれば終わりあるというもの。
私はその子供時代から見てきた風景の一部を切り取るように、ここ御所の地に僅かの古材を持って帰ってきた。

理想を追い求めた販売所は2年で閉めることなり、このカウンターも役割を終えた。記憶が繋がっているこの古い板。それは私の記憶だけではなく、その上に立って働いていたおじさんの意識がしっかりと染みついたもの。

そして人は知っているだろうか?これは木であったことを。
山があって、それを育てる人がいて、切り出して運び製材して乾燥して、大工が工場の棟を上げて。
これほど物を大切にしない時代は無い。物とは本来は生命そのものだったはずなのだが。

店を閉めて潰すことを躊躇していたカウンターを張り付けている鉄鋼ごと電気丸鋸で3分割する。けたたましい音だ。

自分で作ったからどう分解すればいいか分かっている。カウンターを支える為の柱も外す。そして3分の1になったカウンターに合わせて再び柱をくっつける。それぞれ、3分割した天板は小さくなったカウンターの上に当分割にくっつけて棚にする。
何かが潰されるときの音はけたたましく、何か大きな記憶にメスを入れたかのように決して愉快な行為ではい。しかし、人は今までもきっとそんな儀式をして次に現れる世界を見てきたのかもしれない。

近年は作って潰すのサイクルが実に早いが、それは産声という神聖なる音よりも、悲鳴に似たけたたましい音の方がやけに耳に残る。

この作業小舎はこうして再び次の目的へと再び歩み出した。

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寒波と風邪

未分類 2018-02-01

こないだの大雪だったときの写真。
この日、風邪を引いて朝の体温計では38.6度。体調が悪く、0度を下回る気温での収穫は辛かった。

そんなことも時間が経って元気な身体になればなんてこともないこと。ちょっとした辛いことも、楽しかったことも、記憶なんていい加減なものですぐ忘れる。
でも、だからこそ些細な辛さや楽しさが人生では一番大切な事なのだろうと思う。小さな積み重ねは大きな辛きことを超えられるし、大きな喜びにも人生は振り回されない、そんな自分を持つことができると思うから。

例えば想像してみる。
明日食うものが無いという貧困国の子ども達を。大きな辛きことの中にある日常。その子供たちは絶望の中で毎日を過ごしているのは無く、日常の些細な楽しみに大きな喜びを持って生きているのではないか、一日を私なんかよりもよっぽど大切に過ごしているのではないか、と希望を持ってみる。この日本に住んでいて幸福がどちらなんて図れるものではないが、自信をもって日本だとは私はどうしても思えないのだ。それは私がもしそういう境遇に置かれたとき、その大きな辛きことを超えられるとは思えないし、そういう自分に恐怖すら感じるから。
いつも生には謙虚さを持ちたいと思っている。

もうろうとする中、雪をかき分けての収穫。ふと立ち上がり見た、ちょっとした辛さの向こうに広がる白い世界。もし人生の中にこれが無ければ私は発狂して仕事を放りだすだろう。生きる為だけに労働をするなんて辛すぎる。些細な辛さと、些細な喜びが人生における醍醐味ではないだろうか。
そう自分を慰め病気の身体を引きずり仕事をしていたように思う。

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一輪の水仙

未分類 2018-01-30

何故再び写真を撮っているのか?何故ブログを再び書き始めているのか?
自分でも分からない。また再び書かなくなるかもしれない。
読んでいる人がいるのかもよくわからないが。

この地で農業を始めてとうとう私も10年目を迎えてしまった。
当時24歳。今の自宅はそれから3年目に引っ越したのだが、引っ越してから畑と自宅の往復を何度繰り返したのだろう。
時間を積み重ねるごとに畑から自宅へ向かう道の光景が変わる。そう感じるのは毎日の事ではないが、毎日の同じ光景が時に変わっていることに気付くときがある。それは、工事で道が変わったとか、季節の移り変わりにで変わったとかではない。むしろそういう変化は毎日の中で気付くし、そのことによって光景が変わったとは思わない。
変わっていないから変わったと感じるのかもしれない。
また、訳の分からないことを書いていると思われるかもしれないが、結論を急ぎたくない。

時というのは不思議なものでその流れはすべて繋がっていながら認知出来るのは一点ということだ。それは、日常という細い糸のように人はそれを紡いでいるのか、手繰っているのか、とにかく繋がった糸の上を歩いている。時に絡まり、時に手繰り寄せたいものだが、時は決して乱れることなく流れている。

歩めば時間の経過と共に肉体は衰える。だが精神はその糸の長さだけ積みあがっていくものだ。それはもしかしたら記憶という積み重ねによって導き出されているのかもしれないが、そんな物質的な概念からは行く先には何もないことを知っている。

そう、毎日見ている光景に物質的な変化が起ころうとも、糸の上での出来事でしかなく、人が手繰ったり、絡まったりしていることと何ら変わりがないこと。ごく普通の出来事でしかない。物質的に変化しないことなんて時間の上ではありえないし、変化していることが変化が無いと言える。

初めてこの道を通った時の記憶は残っている。同時にその時の感覚や感情。知らない道の先へ向かう自分。住み始めてしばらくは、道端にある小さなことがやたら気になる。中古物件、前の人の意識もまだ残っている。近所付き合い、村付き合いもこれからだ。
そんな時の自分が見ていたこの道を今も同じように見ているわけもなく。物理的に絶対変わっていないところこそ、その変化が大きい。

時とは面白い。その時の自分と今の自分は繋がっているというのに、その時には今の自分を想像もできないし、この道が変化するなんて想いもよらなかったこと。でも、自分は常に変わろうとしているし、実際に変わった。私自身変わったから光景も変わったということだろう。人が地に根付くとはこういうことなのだろうか?

そして、これからも見る世界は変わっていくのだろう。

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ありのまま

未分類 2018-01-28

多くをデフォルメし、ありのままを捉えることが難しい時代。
それは有機的な事柄もすべて無機化し物質的に分析することで、有機的な行動ではなく、無機質な行為によって過去の人による大いなる遺産を現代社会では万人が簡単に手に入れることが可能になるということではないのか?と考える。

そこに、時間という幅は狭まり、それに追従するように時の在り方も変わる。人が時間という物質的な概念の取り扱い方こそが時代という流れの源流であり、時の在り方が個人の心の隙間とも言える。

目に映る現象そのままを行動として日常に落とし込む。それは決してキレイゴトではないし、醜い自身も含めて捉えていく事となる。そこに存在する「不純な動機」は誰しも持っていることだろう。しかし、それはデフォルメという手段がより選択肢が増えることにより、その行為に費やす時間が増える。「不純」は時代の流れの中で「純粋」に生まれ変えられたのだろうか。「不純」は決して消え去るものではない。という見たくない「ありのまま」が横たわっているのかもしれない。

なにも面白くないこと(不純)が実はとても面白い事(純粋)だった。ということをこの黎明期に問われていることかもしれない。と私は思っている。

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2017/12/31

未分類 2017-12-31

殆どこのブログも書かずに一年を終える。
こんなものかな?と思う一年。

土を耕し、種を播く。
それ以上に何もしなかった一年。

人は暇とお金があればろくなことを考えない。私もそう思う。
だから生きることに時間と人生を費やせたら良いのだが、この時代そうはいかない。気付いた時には自分を見失い、何かを選択する些細なことを喜びとする。

身の丈を越えない生き方は弁えを知らなければ、知らずと何かを傷つけることを知らなければならないし、
もし身の丈を伸ばしたければ丈を超えた行為をしなければいけない。それは同時に誰も知らないこと、やらないことでもある。
そこには覚悟がいる。自らを犠牲にし、家族を犠牲にし。子孫繁栄さえも。
嫌ならば身の丈を越えない生き方をすればいい。

私はそういう身の丈を伸ばそうともがく人たちを見てきた。しかし、それを正義とは思わない。むしろ愚かとも思う。
だが、一番の悪は身の丈を伸ばさない人々の身の丈を超える行為だろう。

年を越せばもう一度まつなが畑の門をこじ開ける。

オウムサリン事件、X JAPAN toshiの洗脳事件、反原発運動、今になって気になる。
この国の大きな落とし穴は何も埋まっていないが人というものが少し分かってきたような気もする。

「今が良ければ良い」という楽天的な考え方が大きな間違いを何度も犯してきた時代背景がある中で何事かに関心を持った善意ある少数の人々が時に大きな間違いを犯す。
まつなが畑もまた人々の内にあるその一旦を見たような気がする。

普通に歩くことがいかに難しいか?
私は知っている。

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また会う日まで

未分類 2017-11-13

突然の連絡だった。
農業仲間からKさんが亡くなったと。

とにかく、会いたかった。
3時間山道をひたすら車を走らす。

気持ちは不思議なぐらい落ち着き、

何時も必要な時に、必要なタイミングに彼と出会い言葉を交わしていたように思う。
だから今回もいつもと同じように、その時の必然に何の疑いもなく・・

久しぶりの再会もいつもと同じように。
少しだけの時間。
「また会いましょう。では。」とお別れを言って後にする。

その帰り、友人に電話する。
彼が亡くなった日に新しい命が誕生したことを知る。

時は不思議なものだと思う。
立ち止まることなく刻々と私たちは生きている。

生に謙虚さを、死に敬意を
また会う日まで。

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名古屋

未分類 2017-11-08

パソコンが調子悪くなり、カメラも構える意味も分からなくなり、ブログも書く必要あるのか?なんて・・・。
知り合いにも「ブログ書いたら」て進められるけど・・・。

色々とバタバタと物事が動き、頭で整理がつかないうちに車を走らせていた。
はっきり言ってすべてが良い状況ではない。ただ、もしかすると、そういう環境はちゃんとした物事が存在するからこそかもしれないし、私たちは絶望ではなく前向きに物事を捉えられ、踏ん張り続けられるのも、少なくとも方向性が間違っていないからなのかもしれない。

静かに、静かに時間をなぞるように時と付き合う。
見えてくるのは現実や事実ではなく、その空間に漂う本当のこと。

人が山を切り開き田畑を作り、そこに生きることで農村が出来る。何時しか人は土から離れ、アスファルトとコンクリートで大地を覆いだす。

高速道路を降りた地は埋立で出来た人工島の工業地帯。山を切り開いた時と同じように人は自然を壊し生きる手段を見出していった場所。

妻と下の娘2人は先に実家へ向かっている。私と長男は一日遅れて車を走らせている。久しぶりに妻の家族と顔を合わせ、少しの時間共に時を過ごし後にする。

港に着いた船員が泊まる宿だろうか?用意してもらった宿で一泊する。駐車場も少なく素っ気ない建物だが妙に居心地がいい。労働者の宿らしく過剰なサービスが無く、人間味ある対応もいい。
早朝、息子と港へ歩く。
冷たい潮風と100%人工で出来た大地、港から眺める景色は内海の先にある工業地帯からモクモクと立ち上がる煙が印象的で、早朝は田舎よりも人気が少ないような気がする。
ちょうど朝日が昇るタイミングでその美しい光景は人が作り上げた圧倒的な世界と見事に調和している。
カメラを持って来ればよかったと思ったが、後でよくよく考えると持っていなくて良かったと思う。

時間と時は違うタイミングでこの世に存在する。
時間に追われ出した時、人は時を忘れ、そこに漂うもう一つの世界を無きものとしてしまう。時間は歯車のようなもので上手く噛合ってっている間は良いが、悪い方向へと噛合いだすと隙間が無いのでどんどん悪くなってしまう。それを直すにはまた時間が掛かる。
一方で時は雲を掴むようなもの。実態は無いが確実に存在するもの。それを信じるかどうかはその人次第だが、人は必ず死を迎える。それを時間という現実で説明できるだろうか。

時の影響が大きい子ども達を見ていると大人の時間にはめ込むことはどれだけ愚かなことかと気付かされる。

私たちにとって遠出することはこういう時ぐらいだが、一回一回がとても貴重で多くを気づかされる。
今回は色々な想いを持ってのことだったが、そこに漂っている世界はとても温かいものであったように思う。

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鉄車輪

未分類 2017-01-13

 

 

SDIM6274

年が明けてバタバタと時間が過ぎる。
冬は冬の仕事がある。今年に入ってまずはずっと放任だった琵琶の木を剪定する。
チェーンソーでバサバサ。切ってみるとすごい枝葉の量に、半分残して終了。
作業小舎ももう少し手を入れたい。新しく入り口を新設する予定。ちょうどいい古建具も倉庫にある。

重い鉄の車輪は押す時には大きな力が必要とする。
だが、動き出し慣性が働きだしたときにはそう力も必要なくなる。ただ、少し怠けるとゆっくりと気付かぬうちにスピードは落ちていくだろう。その怠けが無意識の気持ちの緩みであっても。

それを立て直すとき二つの選択肢がある。
急いで短期的に立て直すのか?先を見てゆっくりと立て直すのか?
どちらを選ぶのかでその人の心境は大きく変わる。
だが、どちらを選ぼうとも、
その先に何が起こるのか、何があるのか、誰も分からない。

重い車輪なのか、軽い車輪なのか、人は選ぶことが出来るし、また途中で諦めることもできる。
重かろうが、軽かろうが、その車輪にどれだけの意味があるかは分からない。
いや、ただの鉄の車輪。
ただ、ただ坦々と押し続ける。

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12月31日

未分類 2017-01-01

sdim6180

今年最後の日。
何時もなら畑の片付けも終わり、31日には機械のエンジンオイルを交換して一年を終えるのだが、今年はそこまで行かず・・・。自宅は何時ものように小掃除で年を越す。毎年やり残すことが増えているような。

「もう今年のような一年はいやだ」というのが正直な気持ち。そんな中、自分たちの暮らしは落ち着きを取り戻す。

子供が産れるというのは大変なこと。核家族で新規就農者でとなるとなおさら大変だということは3人目になればもう分かったこと。「家も作業小舎も畑もどれだけ荒れても良い」と開き直り「これからのこと」を見据えてコトを進める。
今、目に見えている状況は悲惨かもしれない。荒れているのは身の回りだけではなく、野菜セットのお客さんにも、間違って送ってしまったり、請求書を間違っていたりと事務仕事をする嫁さんのミスが多かった。
乳飲み子を抱えての仕事は無理があるのだろう。

それでも、暮らしの中に時間が戻ってきた。
「出来ない」と思うことは人にとってどれだけ身勝手なコトなのか。そのストレスが時間を潰す。子供を持つということは家族・家庭を持つということ。それは、繋げるということであって、未来を作るということで人が死を迎えた後も続く命に対して雑に時間を過ごすことはどれだけ未来を無駄にしているのか?ということになる。
目に見えることや、見栄や仕組みに拘ることはそれほど大切なことではないということに改めて気づいた一年でもあった。どうしても、時間と経済に追われる時に家族の時間は私たちにとって大きな贈り物となった。

より目に見える豊さを追い求め、物と情報と仕組みが増え続けるこの時代に、見えない人の部分が行動へと現れた年、より人間らしくなった年とも言える。
マイナーチェンジを繰り返してきたこの文明も、もうそろそろ根本的な見直しが必要に迫られてきたのかもしれない。

目に見えることや、見栄えや仕組みを追い求めてきた結果、人の中身はどうだったのか?外と内は連動しているということを果たして今の結果から社会という外側を人々はどう判断したのか?

無い時代から在る時代へと変わる時は当然安定するが、在る時代から先を私たちは知らない。もしそれが無いに向かうのであれば、不安定になるのは当然。
ただそれは限りある世界の見方。

歩くということから自転車になり、機関車や電車になり、車になり。
道端にある何かを目にすることが無くなり、偶然な出会や出来と奇跡がどんどん減る。偶然や奇跡は予測や仕立て上げられないところからくること。
移動も情報も時間も早くすることによって沢山のコト・モノを見過ごしているのではないだろうか?それは、もしかしたら限りなき世界から私たち人への贈り物かもしれない。

さぁ、不完全という中で今年も終えることにしよう。
そんな中、土の上で労働が出来、食べてくれる方がいて、暮らしと家族がその延長線上にある。
全てが繋がり、共に生きることができる。
全てのことに感謝し、苦しみや悲しみを忘れることなく、新年を迎えたい。

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