多くをデフォルメし、ありのままを捉えることが難しい時代。
それは有機的な事柄もすべて無機化し物質的に分析することで、有機的な行動ではなく、無機質な行為によって過去の人による大いなる遺産を現代社会では万人が簡単に手に入れることが可能になるということではないのか?と考える。
そこに、時間という幅は狭まり、それに追従するように時の在り方も変わる。人が時間という物質的な概念の取り扱い方こそが時代という流れの源流であり、時の在り方が個人の心の隙間とも言える。
目に映る現象そのままを行動として日常に落とし込む。それは決してキレイゴトではないし、醜い自身も含めて捉えていく事となる。そこに存在する「不純な動機」は誰しも持っていることだろう。しかし、それはデフォルメという手段がより選択肢が増えることにより、その行為に費やす時間が増える。「不純」は時代の流れの中で「純粋」に生まれ変えられたのだろうか。「不純」は決して消え去るものではない。という見たくない「ありのまま」が横たわっているのかもしれない。
なにも面白くないこと(不純)が実はとても面白い事(純粋)だった。ということをこの黎明期に問われていることかもしれない。と私は思っている。
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