夜7時に家を出て、8時に五ふしの草へ野菜の引き渡しの待ち合わせをしている。
その途中、車内のラジオでシリア難民のニュースが流れる。
「難民はスマホで情報を得て、ドイツへ・・・・」?
難民と言うと命からがら逃げて来てのイメージがあるけど、私も持っていないスマホを持っている。
裕福な国なのだろうか?それとも、誰もが持っていて当たり前の世界になっているのだろうか?
福島の時も感じたけど、被災地でもお金を持っている人とそうではない人が当然存在する。
その後の苦労、命の保障はその格差に比例して貧困層ほどリスクが高まる。
関東から海外へ3.11をきっかけに移住した人を何人か知っているが、真っ先に国外に出られるのは裕福な人達だろう。自分だったらと思うと当然考えられないこと。
保養受け入れの活動も、関東からが殆どで我が家と圧倒的な経済格差を感じることの方が多い。
そういう時は保養というよりは移住案内所のような役割になる。本当に困っている人、助けてほしい人というのは動けないで現地に多くいるように思う。もしくは動けても、貧困が付きまとう状態の人々。
蓄えを持たず動けたとしても、
移住先、避難先で仕事が出来るか?住む場所があるのか?ということが問われるが、無ければ物乞いと路上生活が待っている。(日本ではないと思うが)
支援するというのは、裕福な人達を支援する方が圧倒的に支援側の負担は少ない。
助ける、分け与える、というのは自分の身を削ること。
多くを持っている人ほど、多くを分け与えることができる。ちゃんと分配が出来れば多くの命を救うことが出来るだろう。
しかしそれも、当然限界がある。
私は結局、福島へ行って誰も助けることなく帰って来た。
それは、目の前にあるどうしよもない苦しみを見て、何もしないで自分たちの暮らしに戻ると言うこと。人が生きると言うのは誰かの苦しみの上に存在すると言うことをまざまざと見せつけられてしまった。
それは、多くを分け与えた人も、少しの人も関係なく、自分たちの足元を見た時、その暮らしは誰かの苦しみの上に存在すると私は考えている。
それを、罪深いと言うのか?それとも、仕方ないと、私たちには罪が無く、日常と多くを持つことを良しとするのか?
どちらにしろ苦しみを持つ人たちがこの世に多く存在するという事実は変わらない。
明日は自分が苦しみを持つ側にいるかもしれない。
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