販売所を休止して2年。いい加減カウンターをどうにかしなければいけないと思い潰した。
カウンターの天板に使われている古材。昔、実家の向かい側にあったロープを撚る古い小さな工場を潰す時に解体屋に交じって床材を貰ってきたもの。
使い古された板にブライワックスを刷り込むと実に良い味が出てくる。
子ども時代当たり前のように見てきた風景がある。その工場から聞こえてくる機械音。今もなんとなく記憶に残っている。時代とは始まりあれば終わりあるというもの。
私はその子供時代から見てきた風景の一部を切り取るように、ここ御所の地に僅かの古材を持って帰ってきた。
理想を追い求めた販売所は2年で閉めることなり、このカウンターも役割を終えた。記憶が繋がっているこの古い板。それは私の記憶だけではなく、その上に立って働いていたおじさんの意識がしっかりと染みついたもの。
そして人は知っているだろうか?これは木であったことを。
山があって、それを育てる人がいて、切り出して運び製材して乾燥して、大工が工場の棟を上げて。
これほど物を大切にしない時代は無い。物とは本来は生命そのものだったはずなのだが。
店を閉めて潰すことを躊躇していたカウンターを張り付けている鉄鋼ごと電気丸鋸で3分割する。けたたましい音だ。
自分で作ったからどう分解すればいいか分かっている。カウンターを支える為の柱も外す。そして3分の1になったカウンターに合わせて再び柱をくっつける。それぞれ、3分割した天板は小さくなったカウンターの上に当分割にくっつけて棚にする。
何かが潰されるときの音はけたたましく、何か大きな記憶にメスを入れたかのように決して愉快な行為ではい。しかし、人は今までもきっとそんな儀式をして次に現れる世界を見てきたのかもしれない。
近年は作って潰すのサイクルが実に早いが、それは産声という神聖なる音よりも、悲鳴に似たけたたましい音の方がやけに耳に残る。
この作業小舎はこうして再び次の目的へと再び歩み出した。
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