発想と確信

未分類 2016-08-31

SDIM5931

悶々と考えることが多い。そんな性格。

息子と話していて面白い。
悶々としたものが今に始まったことではないことに気付く。人々が当たり前とか常識とか時代の流れとか、そんなことに囚われずに何かを発想できることが出来れば、それは、その人の生き方、意識の持ち方、その人が本来兼ね備えているものが現れるということだろう。それが、世間に認められることが目的ではなくなるが、人の「何故」の疑問に真っ向から立ち向かうことになる。

その時、迷いない発想が確信となったとき、社会からは賛同者が少しでも現れるのではないだろうか?もしかしたら、それは、自身の死後のことかもしれない。

教育という観点から見ても「自由」を得るために今の時間の過ごし方に意識を置く。それは、透き通った一切の濁りがないものなのか、社会の濁りの中に垣間見る一瞬の光なのか、どちらの視点から「自由」を捉え、日常を過ごすのか?子供たちが少しずつ社会性を持ち始め、神の子から人の子へと移り変わるその時期に「自由」の捉え方は変化するように思う。

発想という人が本来持つ性質と本質の結果が、確信となり時代の的を射るには「自由」の捉え方と今という時の過ごし方が大きい。その年齢にあった時の過ごし方は将来の結果に大きい。

人が成熟していくうえで私たち大人もその過程を踏んでいくが、子供の日常が精神に与える影響を直に感じたとき、物理的な環境とその意識の置き所、音と空気とリズムが感性と感覚を育み、それが考えと行動を司ることを確信する。発想はどこかのタイミングで確信となり、それは大人が人ととして成熟していく過程に必ず必要なものだろう。

時と時間がこの空間に2つの流れを作っている中で、それを再確認するという意味では子育てはとても大切なことでもある。

男が土を耕すことを止めスーツを着だした時から人は時間に支配されるようになってきた。情報と選択も時の流れを早くすることで生み出される。この空間の2つの流れは精神と身体ともいえることで、身体は決められた時間の流れで衰えていくが、精神は変則的な時の流れの中で育まれるもので成熟の過程に大きく関係している。
時代は1億総活躍。次は女性がお金とキャリアの為に時間に支配される時代となる。

人が成長する過程を無視し、既存の時間軸で物事の成果を評価する時代は、時を否定し、精神を軽視する。そんな時代に発想と確信は人間という物質ではない、普遍的な生身の精神に訴えかけるものとなる。だからこそ、この世は憶測しても予測できない変化が存在し、次の時代は誰にも分からないのである。

© All rights reserved.