未分類 2015-10-28

 

SDIM4920

ここ数日お腹をこわした状態が続いている。
そして今日頭痛が酷く、午前中は休もうと本を読む。それでも治らず午後から布団へ。

この時期は雨が降らないのは珍しいが、その為野菜が大きくならず。今日は畑の状態もようやく少し落ち着いたので、一日水やりでもと思っていた。
仕方がない。

無我夢中で季節に追われている農繁期。そんな時期は日常と今後の農作業のことで頭がいっぱいになるが、少し涼しくなって余裕が見え隠れしだすと、頭の隙間に「私自身」でない外側の思考が傾れ込んでくる。
そして、当事者から第三者として自分を捉えれるようになる。この入れ換わる時期はどうしても憂欝になる。

光から闇へ足を踏み入れる瞬間は誰もが躊躇するものではないか?体調の悪さも身体が入れ換わる準備なのかもしれない。
一年に二回、春は穏やかに、秋は強引に、一度リセットされ自分の奥底にある「私」にその変化と時間というリズムを刻む。
青虫から蛹に、蛹から蝶になるように。

また、生から死、死から生とこの世が繋がり循環しているように、人生という人一人の時間は一年に一度の生死を毎年体感し一生を終える。それは自分自身の内にある「私」に訴え掛けるものであって、決して外側の自分には感じ取れるものではない。

人が今の文明をつくり上げ暗闇を隠すように自ら光を手にすることによって、「私」という存在をかき消し、常に「誰か」という曖昧な世界観を創り上げた。その時、人間の尊厳は自らの手からこぼれ落ちてしまった。
人は権利と平等と平和を追い求めながらも「私」を見失ってしまった世界には調和が保てず「誰か」という存在が好き勝手に主張する纏まりない世界を成立させ、権力という対極の力が圧倒的な影響力を持つに至る。そんな時代も人の本質が変わることは無く、この日本で年間2.5万人が自ら命を絶つ理由はあらゆる目に見える出来ごとではなく人の内面に隠されている。
これだけ物に溢れ、食うに困る人が世界的に見ても圧倒的に少ないこの社会で「私」を見ることが難しくなってしまった現代は、市民、時代、政治が分断されマスメディア、インターネットを中心とする情報の氾濫から価値観、世界観、思考までも自分自身では制御不能となり「誰か」という虚構の中、人の言葉は虚しく消費社会の一つとして使い捨てられてしまう。それは「良い世の中」と思う陰に、深く、重い事実が存在することを「私」という存在によって捉えることが出来ない為に、事実が情報というモノに近い言葉として表現されるがために起こる。

歴史がもし、今現在も刻まれているとしたら、消費という物の時代から、「私」で「つくる」という内面の発展を持たなければ国の「私」という存在も「誰か」に置き換わり、建前上の存在として人を管理する機関へと変わり、国民は全てモノに近い数字に置き換え評価する時代が来る。それは私たちの身の回り全てが「誰か」という虚構の中で「私」の居場所を失い、さ迷い続ける世の中が目の前まで来ているように予感している。

この変わりない世の中がまだあるとしたら、水や光や風が息づくこの世界に耳を澄ませ、聞いてみようと試みるのも着地点を見出す何かになるかもしれない。

夜になっても一日寝ていたのにまだ眠く、でもどこかに正気を持ちつつ眠りに就いた。
雨の音が聞こえる。天気予報の雨も信用していなかったが思ったよりも降ってくれている。
罪悪感も消え、穏やかに深い眠りに就いた。

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