夏休みで出荷の傍らには子供たちがいる。
お手伝いさんと妻、長男、長女、次女、そして私の5人。なんだか賑やかになってきた、まつなが畑。
毎日、私はここで仕事をして、生活がここにある。
確かに忙しい毎日だが、生まれて半年の次女がいることで時間がイヤでも時間泥棒には取られいないように思う。
出来ることが制限され、出来ないことにイライラが募り、疲れ果て、放り出したくなる。そんな時に、ふと今ある光景を見たとき、問題はお金だけだということに気付く。
「まぁいいか」と思えれば、毎日家族と居られ、こうして子供たちやお手伝いさんと一緒に仕事が出来、どれだけ畑が荒れようと、どれだけダメな農家というレッテルが張られようと、この時間は私には何物にも代え難い時間だということに気付く。
次女が生まれる前、下の子が保育所に行くようになってから妻が畑を手伝うようになる。農業が出来るというのは心が安定し、収入も増えるが、時間がどんどん削がれていた。子供たちにとって私たち大人はどう映っているのだろう?と客観的に眺めたとき、「時間がある」というのはとても大切なことのように思える。忙しい中でも、身近に大人がいて、それが暮らしや生きるという営みであって、そういう行為を見て理解し、もしくは、染み入るように時間がそこにある。
時間は不思議なもので1秒2秒と決められた間隔で動いているはずなのに、時にその間隔が長くなったり、短くなったりする。1秒のはずの時間が一瞬の出来事を目の当たりにしたときにはとても長く感じる時もあれば、何かに感動しているときは時間がすごく短く感じる。
時計の時間の間隔は現代社会の物質的な価値観で決められたもので、大人はどんどんそれに慣れ、その通りに動くのが社会人だと教えられる。だが、子供たちの中にはそれとはまったく違った時間の流れがあるということを意外と大人は気付いていない。
私たちが作り上げている社会で精神というものにより近い子供たちから大人は多くを学ぶことができるのかもしれない。
オレンジや赤い、大きかったり小さかったりする丸い実を床に並べ、子供たちが袋へ詰める。効率とは無縁のまつなが畑だが、目の前に畑があって、そこで育て、収穫し、決まったお客さんに分配する。そこには私たち家族やこうした生き方に共感してくれ、助けてくれる人がいる。
こうして映し出された光景を見たとき、この時間を大切にしたいと思う。物質的な尺度と精神の尺度をしっかり自分の中で持つことが出来れば、もしかしたら間違った方向へは向かわずにすむのかもしれない。
© All rights reserved.