畑スタッフとして手伝ってくれているTさんのお母さんが亡くなられる。
先日、最期のお別れをしてくる。
ここにも何度か足を運んでくれて、定期便のお客さんでもあった。
とにかく元気な方で、芋掘りを手伝ってくれた時は60代とは思えないほどパワフルに働いてくれたことが印象深い。
65歳で癌で倒れたのだが、その人生はどういうものだったのだろう?
娘さんのTさんと関わっていると何処となく感じるものもある。
母子関係の在り方が垣間見える時、その何気も無い日常がこの世界に確実に存在したということ。それがどれだけ尊いものなのか。この世の中に必要なものだったのか。悲しみの深さだけ、精神は深い。Tさんの子育てにもその精神は受け継がれているように見える。
宮崎駿が辺野古基金共同代表の記者会見の時「いま歴史の、ある場所にいるんだという感覚が鈍くなっていて、このままずーと続くんだろう、みたいな感じがこの国のなかに蔓延しているんだと思います。」と、ある質問に答えていた。
私たちの人生も何時か終着点があって、それは明日かもしれないし、もっと先かもしれない。ただ日常の中に「このままずーと続くんだろう」とどこか思いがちかもしれない。
私は祝い事よりも死と向き合うことの方がずっと大事だと思っていて、死が存在するから生が存在するという当たり前のことを思い起してくれる。
きっとこの世というは、もう一つの世界からしたら、とてもちっぽけな世界なのかもしれない。
善人も悪人も、戦争や災害や貧困で誰にも気づかれずこの世を去った人々、苦しみや憎しみを持ってっ去った人々、全ての人が同じ場所へ行くのだと私は考えている。それは、良きことも悪きことも全ての人に平等に分け与えられるということ。
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