チンゲンサイ

未分類 2015-09-29

SDIM4879

 

秋の端境期も、もうそろそろ終わり。
野菜が少ない時期は農家にとっては苦しい時期でもあるけれど、ある時とない時があるから人は学ぶことが出来るし、季節を感じ、一年を通してリズムが生まれる。
ある時代、そんなありふれた暮らしにスーパーが現れ、主婦はハシゴをして少しでも安く揃えようとする。ちょっとでも安く買うのが節約で主婦の鏡だと。人が選ぶということを与えられた時、これがどれほど自由なことで、豊かなことだと思ったに違いない。

でも私は思う。
あらゆる物事が揃った、不自由がない世界で人は生きていけないと。

大量消費文明の真っただ中にいる私たちが一番苦手とするものが満足するということ。これだけ自由で、豊かだと思った世界が実は満足を許されなかったという事実を突き付けられた時、私たちは行く先を見失ってしまった。お金の為の労働と満足することがない消費をひたすら繰り返す毎日。消費する為に休日が作られた。
満足すると言うことは、「もうこれ以上私には必要ない」と言えるということで、延々と消費し続けることではなく、必要以上を持たないことを言う。

安倍総理が経済最優先と言ったのは、「この国は人よりも経済を優先します」と宣言したということ。原発事故が起こった時、人の命よりも経済を優先する為に隠蔽を繰り返した国。安保法案も含め、そうせざるを得ない状況を作ってきた過程には経済を優先した国づくりをしてきたという事実がある。

バブルが崩壊し、貧困格差が拡大する今、物から精神の進歩へと移り変わらなければいけない時代へと入った。多くの人が「多くは必要ないから消費を減らします」「足りているから必要以上は分け与えます。」と言えばこの国は変わる。

選択する、溢れる、そんな自由と豊かさを追い求める行く先は貧困格差と戦争と犠牲というものからは逃げられない。
もし貧困層が増えればこの国の治安は悪化するだろう。もし武力を抑止力として利用したならばテロと言う形で対抗するだろう。犠牲者は必ず復讐するだろう。
資本を取り込みたいのは誰なのか?戦争をしたいのは誰なのか?犠牲者を出しても何とも思わないのは誰なのか?それは民衆ではない。

チンゲンサイが出来る喜びは、無い時期があるから。バブル期以降確立された価値観と違う世界で生きるのもそう悪くない。
自由とは不自由の中にしか存在しないのではないか?と私は思う。

© All rights reserved.