12月31日

未分類 2017-01-01

sdim6180

今年最後の日。
何時もなら畑の片付けも終わり、31日には機械のエンジンオイルを交換して一年を終えるのだが、今年はそこまで行かず・・・。自宅は何時ものように小掃除で年を越す。毎年やり残すことが増えているような。

「もう今年のような一年はいやだ」というのが正直な気持ち。そんな中、自分たちの暮らしは落ち着きを取り戻す。

子供が産れるというのは大変なこと。核家族で新規就農者でとなるとなおさら大変だということは3人目になればもう分かったこと。「家も作業小舎も畑もどれだけ荒れても良い」と開き直り「これからのこと」を見据えてコトを進める。
今、目に見えている状況は悲惨かもしれない。荒れているのは身の回りだけではなく、野菜セットのお客さんにも、間違って送ってしまったり、請求書を間違っていたりと事務仕事をする嫁さんのミスが多かった。
乳飲み子を抱えての仕事は無理があるのだろう。

それでも、暮らしの中に時間が戻ってきた。
「出来ない」と思うことは人にとってどれだけ身勝手なコトなのか。そのストレスが時間を潰す。子供を持つということは家族・家庭を持つということ。それは、繋げるということであって、未来を作るということで人が死を迎えた後も続く命に対して雑に時間を過ごすことはどれだけ未来を無駄にしているのか?ということになる。
目に見えることや、見栄や仕組みに拘ることはそれほど大切なことではないということに改めて気づいた一年でもあった。どうしても、時間と経済に追われる時に家族の時間は私たちにとって大きな贈り物となった。

より目に見える豊さを追い求め、物と情報と仕組みが増え続けるこの時代に、見えない人の部分が行動へと現れた年、より人間らしくなった年とも言える。
マイナーチェンジを繰り返してきたこの文明も、もうそろそろ根本的な見直しが必要に迫られてきたのかもしれない。

目に見えることや、見栄えや仕組みを追い求めてきた結果、人の中身はどうだったのか?外と内は連動しているということを果たして今の結果から社会という外側を人々はどう判断したのか?

無い時代から在る時代へと変わる時は当然安定するが、在る時代から先を私たちは知らない。もしそれが無いに向かうのであれば、不安定になるのは当然。
ただそれは限りある世界の見方。

歩くということから自転車になり、機関車や電車になり、車になり。
道端にある何かを目にすることが無くなり、偶然な出会や出来と奇跡がどんどん減る。偶然や奇跡は予測や仕立て上げられないところからくること。
移動も情報も時間も早くすることによって沢山のコト・モノを見過ごしているのではないだろうか?それは、もしかしたら限りなき世界から私たち人への贈り物かもしれない。

さぁ、不完全という中で今年も終えることにしよう。
そんな中、土の上で労働が出来、食べてくれる方がいて、暮らしと家族がその延長線上にある。
全てが繋がり、共に生きることができる。
全てのことに感謝し、苦しみや悲しみを忘れることなく、新年を迎えたい。

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