小さな農園の野菜

未分類 2018-02-17

野菜セットを春の端境期を除いて決まったお客さんへ決まった品目、量を作り続ける。そんな農業を続けてきた。
農業と言っても畑レベルの超小規模。たった1haの農地を工夫しながら少量多品目を作付し、年間通して野菜がある状態を作る。一昔前なら1haと言えばそれなりの広さなのだろうが、今でいえば一家族が耕す小さな農園という感じではないだろうか。

そんな小さな農園でまつなが畑は決まった食べ手に向けて野菜を作る。誰が作ったのか分からない食べ物を選ぶのではなく、どこで、どのように、誰が、がはっきりと分かり、食べることで畑の状況を知れる。この社会では少数の人たちがそれを選ぶ。
余った野菜は直売所で売るが、自分たちの範囲を超えて外側での販売はちゃんとしたことをするには必要なことのようだ。ただの金儲けではなく、売るという手段を使って何かを食べ手に伝える努力をする。そうすると金儲け以上の目的が生まれ、外と内のバランスを取ることによってそこまでの道筋が出来ていく。

人は何の為に種を播き、何のために売り、何のために料理するのか。
日常のごくごく普通の労働の中に本当があれば、何かに迷うこともないのではないだろうか。

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凍てつく

未分類 2018-02-14

最近は寒さが厳しく収穫を午後にしている。
朝は野菜が凍てつき、土もスコップが弾き返されるほど固い日もある。

出荷作業は隙間風が多い小さな古民家、野菜を調整するのも手が冷たい。部屋の中にある炊事場の桶も凍っている。

これだけ寒さが続く年も最近では珍しい。

寒さ厳しく身体も辛いが、どこかで安心しているような気がする。暖かい冬はセカセカして落ち着かないから、寒さで縮こまっている方が思考もさえてくる。
巷で冬は冬の、夏は夏の服をショッピングセンターに通う人たちのように私は冬は冬の夏は夏の過ごし方がある。しかし、そこには厳しい冬が必要なようだ。夏はもう少し暑さが穏やかになったら良いなとは思うが、冷夏は冷夏で物足りないと思うのかもしれない。

毎朝、子ども達が雪の中歩く姿を見て嬉しくなる。
「寄り道しないで早く歩けよ」と言っている先から水溜りに張った氷をバッキと踏みつけている。
冬は冬の楽しみは大人も子供も変わらないと気付く。この時代、子どもと大人がどんどん分離しているように思えてならない。私もそうだが車に乗って水溜りの氷をタイヤで踏みつけてしまうからだろうか。
たまには子ども達と一緒に雪の中を歩くのも良いかもしれない。

今回の写真は蛇口に取り付けたホースに繋ぐ器具が凍って水漏れを起こし、滴った水が下に落ち鍾乳洞のように下から氷が立ち上がってきたところを上から撮ったもの。

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小さなカリフラワー

未分類 2018-02-12

今年の冬は大不作の年。
巷も野菜は高騰。スーパーでも有機野菜の価格を遥かに超え大根300円。キャベツ500円。

まつなが畑も全体的に野菜は小さい。キャベツも収穫できるものは全体の3分の1ほどか。
そんな不作の年こそ気付くことも多い。
我が家では余裕が無い野菜はお客さんのところへ届けなければいけないので、キャベツ、白菜、ブロッコリー、カリフラワーなど今年は口にする機会が少ない。何時もなら捨てるような野菜も大切に食べている。そういう時の人の気持ちは何故か心地よく思う。それは、豊作を知っているからだろうか。

この日本においてはこういう機会が必要だと思う。そして、明日食べるものが無い国では、たらふく食べられる機会をと願う。

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普通という世界

未分類 2018-02-10

ある時からインターネット上に氾濫している人の言葉が面白いと思えなくなって。
これは重傷だなと。私が言葉を並べても所詮は氾濫した無秩序なインターネットの世界。情報として生産と消費のサイクルの中に放り込まれインターネット社会の繁栄に加担している自分が虚しく思える。

そんな時、2年前に更新が終わっているあるブログを見つける。私と同じ癒鬱質であることが文章から読み取れる。被写界深度が深い写真はそのままを映し出し何でもない日常に在る一瞬を捉える。

テクノロジーに依存しながらもアナログを愛し情報や流行りではないそのままの自分を表現する。会ったこともない人の文章。それは、特別でもなくごくごく普通の人の言葉のように思えたからこそ私には何の抵抗もなく読めたのだと思う。普通がこの社会ではすごく貴重なことになってしまった。

最後の更新は多くの人生をささげたカメラを捨てて終わっている。恐らく二度と更新されることは無いだろう。私はその人の気持ちがわかるような気がした。

孤独から少し解放され、私はもう少し書いてみようかなと思えたのかもしれない。

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歩く

未分類 2018-02-10

物心ついた時には御所で時間を過ごしている長男。ここで産れた娘2人。
移住者の私には常に比較対象があるこの土地だが、子ども達はこの地がすべてだ。

人が自らの足で一歩ずつ踏み出すことは、この与えられた世界で精一杯楽しんで歩くということだと思う。

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映し出されるもの

未分類 2018-02-09

ふと足元にある影を見ることがある。
黒い、その形が自分だと何故、認識できるのだろうか?そこには目も鼻も分からない黒い影。

しかし、確実に自分自身だと人は知っている。

そう、目に映るリアリティーだけがこの世の全てではないと人は気づいてる。想像し、その中に居る自分を探ることで目に見えること以上にリアリティーある世界が存在するかもしれないと思うこともさえある。それは普段目にする自分がその影だからかもしれない。

その影もなくなる時は一緒だから、同等の質量であることには間違いないだろう。それは、自分という存在の中にも二つの世界が存在するという証明ではないだろうか?と、ふとその影に気付いた時には想うことがある。

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